
1960年代末、日本のモータースポーツシーンに突如彗星のように現れ、1970年代のはじめには『F1に最も近い』といわれた男・・・
それが風戸裕でした。
しかし1974年 6月2日、
そう、42年前の今日、彼は富士スピードウェイで志半ば、帰らぬ人となったのです。

当時電子顕微鏡技術では世界トップだった日本電子工学研究所(JEOL)創業者の次男として生まれた風戸裕は、18才の時に生沢徹の駆るポルシェ・カレラ6が日産ワークスチームを破った第4回日本グランプリ(1967年)を観戦し、それに触発されてレースを始めました。
その才能ゆえなのか、早くも1969年の日本グランプリにはタキ・レーシングチームからポルシェ910で出場。総合8位&クラス優勝を果たすことに・・・
ちなみにその910は、前年の日本グランプリで生沢が日産勢を相手に2位でフィニッシュしたマシンそのものなのでした!

その後はタキ・レーシングの活動休止に伴い自分のチームを編成。
前述のポルシェ910で5連勝を飾り、一躍日本のモータースポーツ界のトップスターへと駆け上がりました。
1971年にはシボレーエンジンを積んだローラT222で北米のカンナムシリーズに日本人として初めて参戦。
ジャッキー・スチュワート、ジョー・シファート、ピーター・レブソン、デニス・ハルムらとしのぎを削るというそれは、その頃の日本のレース界が置かれていた環境では考えられないような、常識破りのいわば”冒険”とでも云うべきものでした。
そして翌年、今度は自前のマーチでヨーロッパF2に出場。いよいよF1を視野に入れた戦いは、ニキ・ラウダ、グレアム・ヒル、フランソワ・セベールら錚々たるチャンピオンたちと覇を競うという夢の世界!
1973年シーズンには徐々に結果も出始め、1974年シーズンではついにシェブロンのワークスチームと契約を結び、F1へのステップアップも現実味を帯びてきそうなポジションまでたどり着いたその矢先・・・

日本に戻った風戸は富士GC・第2戦の2ヒート目のスタート直後、高速バンク手前での多重事故に巻き込まれてガードレールに激突・炎上し、死亡・・・
さて、このエブロ製の1/43モデルカーは、
彼が初めて参戦したメジャーレースである1969年日本グランプリ出場車をモデル化したもので、風戸が好んだ言葉でそのマシンには必ず記されていた、”不死鳥”のロゴもちゃんと再現されています。



1969年から1974年という短い年月を、まるで閃光のように飛び去っていった不死鳥・・・
そんなイメージを重ねあわせて、
1969年の日本グランプリ・・・富士スピードウェイのグランドスタンド前のストレートを駆け抜ける、風戸のゼッケン16番のポルシェ910を、このあいだ造ったジオラマで再現してみました。
もちろん1966年仕様から1969年仕様にすべく広告看板も追加して・・・









いかがでした?
けっこう雰囲気出てるような気がしません??
これから世界に飛び出して行こうとする”不死鳥”の、エネルギーみたいなモノが伝わってきそうな・・・

風戸裕・・・享年25才。
その生命を奪った事故は、日本レース史上最悪の悲劇として関係者の間では長い間語ることもタブーとされてきました。
多重衝突の原因をつくったといわれた1969年日本グランプリの覇者である黒沢元治は一人責任を追求され書類送検、またこの事故を契機として富士スピードウェイの高速バンクも使用禁止に・・・
それにオイルショックも重なって、”不死鳥”風戸裕の去った後の日本のモータースポーツはこの後、真の暗黒時代に突入して行くことになるのでした。。。
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