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『流転の王妃』は、昭和34年に出版された嵯峨浩(さが ひろー愛新覚羅浩)の自伝的小説・・・
公爵である嵯峨家に大正3年、長女として生まれた浩は、清朝最後の、そして満州国皇帝である溥儀の実弟、愛新覚羅溥傑と当時の国策による政略結婚を余儀なくされ、第二次世界大戦という濁流に飲み込まれるが如く、文字通り流転の運命を辿りながらもたくましく生きた女性でした。

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その物語は京マチ子主演、田中絹代の監督により、大映が昭和35年に映画化したり、テレビ朝日が常盤貴子と竹野内豊の主演で平成15年に開局45周年記念番組としてドラマ化したりしたので、もしかすると御存知の方もいらっしゃるのではないでしょうか。

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さて、嵯峨浩と日本の陸軍士官学校を卒業した溥傑は昭和12年に軍人会館(現九段会館)で結婚式を挙げた後に、新婚時代を千葉で過ごすのですが、その館が今でも稲毛の街に残されています。

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稲毛浅間神社の裏手にある、なんの変哲もない古い平屋の日本家屋・・・
ここが、”流転の王妃”としての愛新覚羅浩のルーツとなったわけですが、
現在では『千葉市ゆかりの家・いなげ』として一般に公開されているのです。

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さっそく中に入ってみると・・・
そこは自然豊かな中庭に面した縁側や凝った意匠の組子細工を持つ、実に素晴らしい古の日本を偲ばせる空間でした。
大正初期に建てられた和風別荘建築・・・
愛新覚羅溥傑・浩夫妻がここで暮らしたのは僅か半年ほどでしたが、
政略結婚にもかかわらず、家族思いの溥傑との生活は穏やかで幸せに満ちたものだったそうです。
それをうかがわせるような、
なんだか優しい雰囲気の家ですよネ・・・

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この唯一の洋間は、大陸出身の溥傑を思い、浩が作らせたもの。
その壁には夫妻の仲睦まじい様子を伝える写真が展示されていました。

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嵌められた素敵な窓ガラスからは、離れが望めます・・・

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縁側に腰掛けて庭を静かに眺めていると・・・
ふいにある光景が僕のアタマに甦ってきました。
それは、今は更地にされて駐車場となってしまった大阪・豊中の祖父母の家。
小学生の頃までは、毎年夏になると遊びに行って同じように縁側に腰掛け、
アイスキャンディーやたこ焼きを食べたり、関東にはいなかったクマゼミの鳴き声に驚いたりしてたっけ・・・
多分建てられたのが同時期くらいだと思うのですが
ホント、そっくりなんですよねェ~


さて、そんな感慨に耽っていると
あの時と同じように庭に出てみたくなりました。

備えられたサンダルを拝借して、
まずは凝った意匠を奢られた離れへ・・・

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その裏には、なんと防空壕まで残されていましたョ!

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庭から眺める母屋・・・
嗚呼、本当に祖父母の家に似てるよなァ~

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五月らしい陽光が降り注ぐ庭を、かつては海が見えたであろう方向に進んでいくと
母屋の軒に連なるようにして立派な藤棚がありました。
なんだか・・・とても心安らぐ美しい光景・・・

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愛新覚羅溥傑・浩夫妻は、その後この稲毛の家をあとにして満州に移り住み、二女を授かりましたが日本が敗戦を迎えると同時に攻め込んできたソ連軍に溥傑は捕らえられシベリアに抑留。浩は中国大陸を転々とした挙句に刑務所に入れられたりしながらも、やっとのことで日本に帰ることが出来たのでした。

時は流れ・・・
昭和32年、夫妻の長女慧生が習った中国語で周恩来に手紙をしたため、それに心動かされた周恩来の特別の計らいで溥傑の生きている証、手紙が浩の許に届きます。
しかし同年暮れに慧生は伊豆山中で謎の心中を遂げ・・・

浩が次女を連れ、長女の遺骨を持って北京に赴き、特赦を受けた溥傑と再会できたのは昭和36年・・・
別れ別れになってから既に16年の歳月がたっていたのでした。

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藤の花の花言葉は、『決して離れない』なんだそうです。

この稲毛に残された、”流転の王妃”がかつて暮らした館の庭で
その咲いている姿が不思議と脳裏を離れなかったことも
なんとなくうなずけるような気がしますよネ。。。